昭和の時計とソ連の時計

古い時計のあれこれ

ボストーク アンフィビア Amphibian

 

 ソ連製 潜水時計 Восток Амфибия 

公開日:2019/03/11    最終更新日:2022/08/06  

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旧ソ連製の腕時計で、ボストーク(露:Восток / 英:Vostok)社*1アンフィビアです。英語読みならアンフィビア(露:Амфибия / 英:Amphibian)。

ボストークと言えばコマンダスキー(露:Командирские / 英:Komandirskie)が軍用時計として真っ先に思い浮かぶと思いますが、実際にはコマンダスキーは一部のエリート将校向けに製造された時計(後に広く販売)で、兵士への装備品ではありませんでした*2。一方、アンフィビアは民生品からの軍事転用とは言え、実際にソ連海軍に装備品として納入されており、その点でコマンダスキー以上の存在だと思います。

コマンダスキーに関しては、こちらをどうぞ。

 

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文字板と裏蓋に入る「Амфибия」の文字(文字板は最終モデルのみ)

 

 目次

 アンフィビアとソ連海軍の НВЧ-30

ソビエト連邦国防省の命令により、深海という厳しい条件下での高い信頼性と、深度300m(30気圧)にも耐えうる軍用の潜水時計として、ボストーク社が自社の潜水時計を改良し製造したのが、НВЧ-30(Наручные Водолаз Часы 30)であり、そのベースとなったのが、1967年に開発されたアンフィビア(200m 防水仕様)なのです。

 

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画像: https://vintagewatchinc.com/ussr/vostok/nvch-30 より

写真はボストークのアンフィビアとソ連海軍へ納入された НВЧ-30(NVCh-30)です。海軍仕様はインデックスが数字に成っています。このモデルは初期型でアンフィビアはこの後、樽型、八角形とケースデザインが変わりますが、海軍仕様の ВЧ-30 も同様にバージョンアップしていきます。

 

開発者の試行錯誤

ロシア語で、Амфибия は "両生類" を意味し、水陸両用の生き物をこの時計の象徴として名づけられました。開発者の Михаил Федорович Новиков 氏とВера Федоровна Белова 女史のインタビュー記事が、ロシアの時計業界誌「Часовой Бизнес」の2001年No.1に「На суше и на море(陸と海で)」(P18〜 P21)と題して掲載されました。

 

issuu.com
20気圧に耐える防水ケースや風防、パッキンなどの開発の様子が描かれたこの記事が幸いにも issuu のサイトで読むことが出来ます。ただロシアの雑誌なので当然の様にロシア語ですが、写真も多いので眺めているだけでも楽しめると思います。

 

 旧ソ連のアンフィビア

以下では、ソ連時代の手巻き式アンフィビアについて書いています。1980年後半に登場した自動巻き式のアンフィビアや、現在販売されている物まで加えると内容が雑多となりますので、また違うところへ書きたいと思っています。

 

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写真のアンフィビアは、右が 1970年代後半のモデルで、丸っこいケースの形から「Бочкой(樽)」と呼ばれているようです。「Бочкой Амфибия」で検索するとわんさか画像で出てきます。「Восток 2209」のムーブメントが、このモデルまで使われましたが*3、その後のモデルでは後継の「Восток 2409」が採用されています。

左は1980年代後半から登場し、ソ連崩壊で終わる「СДЕЛАНО В СССР」(ソビエト連邦製)の最後のモデルになります。ラグ*4の有る八角形のケースが特長で、現在のボストーク社が同様のケースを使った新製品の宣伝文の中で「легендарный восьмигранный корпус」(伝説的な八角形のケース)と*5 書いています。これも「樽」同様に「八角形」で通じるみたいです。
 

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上は1967年のボストーク社のカタログに載る、初期の丸形アンフィビア。
1967年に開発され、1970年代まで販売されていました。ラグはケースと別体でネジ止めになっています。三角のインデックスで視認性の良さそうな文字板は、現行モデルにも採用されています。(当時は違う文字板のモデルもありました)

シンプルな丸形でカッコいいのですが、この形状には開発者の苦々しい思いが有りました。(少し下の「開発者の苦悩」で詳しく。)

 

ポーランド海軍のアンフィビア

ケース側面に管理番号が刻印された民生品で20気圧防水のアンフィビア。

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画像: Vostok Amfibia from Polish Navy   Thanks Mateusz P.


ソ連では民生品のアンフィビアが大幅に改良され、30気圧防水の НВЧ-30 として軍で使用されていましたが、ポーランド海軍の管理番号が刻印されたアンフィビア(樽型)も存在しますので、一部では市販品がそのまま軍事転用されていたようです。

ただ、高性能で採用したのか、単にソ連が НВЧ-30 を貸してくれないので仕方無くだったのかは不明です。ソ連には「川しか無いんだから…」って、つれなくされたのかも。(この辺は同じ社会主義でも構成国との扱いの違いかな。) *6


初期モデルのレプリカ

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これは初期型のアンフィビアを模した最近のモデルです(限定生産)。
文字板や針、ベゼルは良く再現されていますが、ケースは残念ながらラグと一体型の別物。下の方「みんな樽型がお好き」の脚注で触れていますが、別体ラグのオリジナルケースのレプリカも存在します。

 

  

 

開発者の苦悩

アンフィビアの開発では、潜水時計に必要な強度を確保するためケースは従来の真鍮製からステンレス製へと変更されました。しかしそれは容易な事ではありませんでした。

その国の工業水準を端的に示すと言われる工作機械。機械を作る機械として工業における基盤の設備ですが、当時のソ連では故障が多く1970年代には旧ソ連が保有する切削工作機械の1/3(100万台以上)が修理やその部品製造に割かれるという惨状でした。*7

そのような工業水準下では当然のように固く脆いステンレスの加工は困難を極め、その製造過程で突起物であるラグ*8が破損する事態に陥り、技術者は苦肉の策として突起物の無い丸形のケースに別パーツのラグを後付けする方法を取りした。*9

アンフィビアのケースが丸型から樽型、そしてラグ有りの八角形へと、より複雑な形状への変化は単なるデザインの変貌ではなく、ソ連の工業水準が開発者の理想へ追いつくまでの道のり、そのものだったようです。 

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初期型のアンフィビアに取り付けられた別体のラグ用パーツ(赤丸)

 

 

 アンフィビアのあれこれ  

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写真のアンフィビアは、潜水時計の要件であるアンチマグネチック(磁性)の仕様を満たしており、文字板にはキリル文字の「Восток」(ボストーク)に続き耐磁性を示す「АНТИМАГНИТНЫЕ」の文字があります。続く「17 КАМНЕЙ」は「17石」で「СДЕЛАНО В СССР」は「ソ連製」です。

同じボストーク社の製品で、有名になったコマンダスキーには「ソ連製」の部分が「ЗАКАЗ МО СССР」(ソ連国防省注文品)となった物があり、軍へ納入された時計として人気があります。しかし、アンフィビアを元に製造され、軍で使用された НВЧ-30 には市販品と同じ「СДЕЛАНО В СССР」(ソ連製)の文字が入っています。(製造国名が入って無いモデルも有るようです。)

「ソ連国防省注文品」が軍で使われた軍用品の印で、「ソ連製」は民生品という誤った認識が広がっていますが、実際に軍に納入されても「ソ連製」のままです。では「ソ連国防省注文品」とは何か? 詳しくは、以下の記事をご参照ください。宣伝です))

 

raketa.hateblo.jp

 

みんな樽型がお好き

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1980年代前半のボストーク社のカタログに載る、アンフィビアの「樽」型モデル。


初代のアンフィビアはラグの付いた普通のケースを目指しましたが、技術不足からラグは別体となりました。その反省か、二代目の「樽」型では端からラグを諦めて打ち抜き安い、凹凸の無い丸みを帯びた形状となっています。ストラップの取り付け箇所は、下の写真のようにケースの裏側の一部を削り込んでスペースを確保しています。

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ロシア時計のフォーラムを覗くと、このモデルが一番人気があるようで、それを見越してかは分かりませんが、アンフィビア誕生を記念してボストーク社が時折販売する限定モデルは全て*10この「樽」モデルになっています。 

 

 

Boctok と Восток 

英語の Boctok とロシア語の Восток では、"т" の文字以外はほとんど同じに見えますが(キリル文字の Т は小文字も同じ形で т)コンピューターでの文字コードは当然違うので、Google の検索結果も違います。画像の検索などで試すと面白く英語の Boctok は、やはり時計。でもキリル文字だと一変します。ロシア、ソ連製時計の検索に、キリル文字を使えば、また新しい情報に出会えるかもしれません。

 

本の中のアンフィビア

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国内外のオークションを含め、ほとんど見た事の無いデザインですが、数少ないロシア時計の専門書 「Faszination Russische Uhren」*11に載っていました。ドイツ語の本ですが、写真を見ているだけでも楽しいです。

 

 


 この切削痕が好き

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ソ連時代のケースにも一部、ポリッシュ仕上げの物も有ったようですが、こちらは機械加工の跡が荒々しく残るモデルです。前出の加工技術の問題を考えると、これはデザインと言うよりは、曲面の研削仕上の限界だったのかもしれません。

しかし、個人的にはこの雑と言うか荒っぽい感じが、如何にもソ連ぽくて好きなのですが、このタイプのモデルは現在では逆にコストがかかるのか、製造されていません。*12(ヘアラインでそれっぽくした物はありますが、違うな…)

 

 耐磁構造

 

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上の写真は裏蓋を外したアンフィビアですが、アンチマグネチック用の耐磁板(シールド)が見えます。一般的には、文字板も耐磁性の高い軟鉄製らしいので次にオーバーホールする時は、文字板に磁力が残るかどうか試してみたいと思っています。
このアンチマグネチック仕様の時計は、旧ソ連時代の製品だけで、現在販売されいる自動巻のアンフィビアでは、一部の特別仕様品を除き*13、この金属板は装備されていません。

 

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自動巻きアンフィビアの裏蓋です。
右が普及品で、左がアンチマグネチック仕様の物です。手巻き式と違い、裏蓋に耐磁板が嵌め込まれています。虹色に見えるのは、軟鉄製の耐磁板の錆止め用メッキだと思います。

 

コマンダスキーとの違い

風防はコマンダスキーと同じプラスチック製のドーム型で、見た目は同じですが20気圧に耐える為にコマンダスキーに比べ、約0.7mm 厚い 2.7mm です。また、裏蓋はコマンダスキーの物はフラットですが、アンフィビアは水圧対策なのか、磁板の逃げなのか、若干(約0.8mm)盛り上がっています。
 

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このアンフィビアには手巻き式のムーブメント Vostok 2409 が載っています。

 

  Восток 2409

下の写真は Восток 2409 のカレンダー付きモデルに当たる Восток 2414 です。このムーブメントは、2015年に新品で購入したコマンダスキーに載っていた物ですが、部品構成は1980年代のアンフィビアの Восток 2409 と同じで、カレンダー関係の部品が追加されただけです(改良されて互換性の無い部品が一部あります)。現在はコマンダスキーを含め、手巻きモデルの多くに搭載されています。

冷戦時代から今も生産が続く、息の長いムーブメントです。

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初期のアンフィビア(樽型の一部も)には一回り小さい Восток 2209 が採用されていましてが、現在は製造されていません。

 


修理をされる方へ

現在の Восток 2409 と旧ソ連時代の Восток 2409 では、部品の構成は同じですが、私が確認した狭い範囲でも新旧の部品で地板の形状(テンプのホゾ穴の周囲)と、それに関連してテンプの小ツバの形状、アンクルの剣先の高さが異なりました。基本設計は同じでも、50年もの間に部品には、様々な変更等が加えられていると思えますので、部品を入手される際は注意ください。

 

 

ロシア語の文字が出てきますが、スペルによっては、英語に見える場合Восток と Boctok)もあって、分かり辛いので太文字にしています。

 

[更新日と内容]

2019.03.11   公開
2019.03.19   "Boctok" のスペルが太字になっていたので修正。
2019.04.13   脚注3に情報を追加。
2019.11.27   ロシア語の記事へのリンクが切れていたので情報を追加。
2019.12.12   НВЧ-30に関する情報を追加し、記述の誤りを修正。
2019.12.17   ЗАКАЗ МО СССР の記述を訂正加筆
2019.12.18   コマンダスキーの記事へのリンクを追加。
2020.01.01   写真の変更と追加。ケースの種類など色々と加筆。
      「ちょっと寄り道 その1」の内容を変更。
2020.02.06    リンク先を新しいドメイン www.Boctok.net へ変更。
2020.03.20    リンク先を元のドメイン raketa.hateblo.jpへ戻す。
2020.06.20   アンフィビアの現行モデルの写真と説明を追加。
2020.09.02    НВЧ-30 の画像と目次を追加。
2020.12.09   ポーランド海軍のアンフィビアの写真とリンクを追加。
2020.12.23 再計測で間違いが判明。風防の厚みを 3.0mm から2.7mm へ修正。
2021.04.18 「開発者の苦悩」への加筆と写真と参考文献(注釈)を追加。
2021.04.20 「開発者の試行錯誤」へ加筆と修正、リンクの追加。
2021.12.22 樽型アンフィビアで「1970年代中期」の記述を「後半」へ修正。
2022.05.22 「開発者の試行錯誤」内のリンク切れURLを削除し修正。
2023.08.06 改行コードの削除。

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*1:現在の正式名称は「ЗАО ЧЧЗ "ВОСТОК"」で、日本語なら「非公開型株式会社チストポリ時計工場ボストーク」となります。

*2:特別な時計として文字板に入れた「ЗАКАЗ МО СССР(ソ連国防省注文品)」が、誤解を生んだようです。

*3:後継の 2409 が使われた物も一部あるようです。

*4:ストラップを取り付ける、時計から突き出た4ヶ所(普通は)の部位。

*5:言い過ぎな気もしますが…。

*6:画像元のフォーラムで潜水時計の書籍「Czas na głębokości」が紹介されていますが、題名の通り中身はポーランド語です。しかし、英語の翻訳版を計画中らしい。楽しみです。

*7:『ロシアの工作機械工業 ―研究開発と品質管理ー 増補版』 五十嵐則夫 津軽書房

*8:ストラップを取り付ける出っ張り

*9:http://web.archive.org/web/20190401012523/vostokamphibian.com/history.html 

*10:初期モデルのレプリカも製作されたみたいですが、極めて限定的だったのかロシアのフォーラムで自慢する写真を見るまで知らなかった。欲しかった、残念!

*11:Amazon.de で買えます。ISBN-13: 978-3929902242

*12:数年置きに作られる記念モデルでは採用されますが、コストがかかるのか値段が跳ね上がります。でも欲しい。

*13:2018年に、耐磁モデルが限定的に発売されています。