昭和の時計とソ連の時計

古い時計のあれこれ

旧ソ連の懐中時計 モルニヤ Молния К-36 編

 

Молния モルニヤ 

公開日:2021/05/16    最終更新日:2023/08/01  

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旧ソ連製の腕時計と言えば Komandirskie(コマンダスキー)でしょう。個人的には Amphibian(アンフィビア)を推したいのですが…. 其れはさておき、では懐中時計はと問われると、それは間違いなく写真の Molnija(日:モルニヤ / 露:Молния)でしょう。もちろん希少価値の点で言えば、同じ36 mm サイズのムーブメントながら短命に終わった Салют(サリュート)や、プロトタイプ的存在の Искра(イスクラ)や Луч 97К(ルーチ)、Кристаллクリスタル)なども挙がると思いますが、やはり知名度の点で写真のモルニヤが一番!*1

 

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中央の鉄道時計モデル(トップの画像も)以外にも、蓋の付いたハンターケース型(右)や、一回り小さな小型のモデル(左)まであり、ほぼ全てに精度の良いMolnija 3602 のムーブメントが搭載されています*2。バリエーション豊富なモルニヤは海外にも積極的に輸出され「Molnija」として以外にも、それぞれの国向けに異ったブランドを冠したモデルも作られました。

輸出用でブランド名が異なる Molnija 。イギリス向けの SEKONDA ブランドも有名。f:id:raketa:20210514141834j:plainMARATHON(左:北米向け) と SERIkSOF(右:トルコ向け)

しかし、これらのモルニヤ(Molnija)が誕生する以前に、違うムーブメントを搭載したモルニヤ(Молния)が存在した事をご存知でしょうか?

この「Молния К-36」編では、1947年に誕生した初代モルニヤの詳細を、後編の「Molnija 3602」編では、1965年に登場し今も良く目にする第二世代のモルニヤと、この二つを繋ぐ重要な役割を持ちながらも、短命に終わったモデルの詳細をご紹介します。


凡例

Молния : 1947年から1969年頃まで製造された最初のモルニヤ。
Molnija : 1965年から2000年代まで製造されたモルニヤ。(日本でも広く流通)
К-36 : Молния に搭載されたムーブメント。一時 Cal. 3602 と呼ばれる。
Molnija 3602 : Molnija 搭載の Cal. 3602 。上の理由で便宜上こう呼びます。

 
 

  "Молния" の原点

古い時計に関する資料を探すのは苦労しますが、それが秘密のベールに包まれていた旧ソ連となると尚更の事です(まあそれが魅力でもあるのですが)。しかし最近、ロシア連邦公文書館で大量の旧ソ連時代の文書資料が公開され、その中にモルニヤの開発製造に関わる公文書が含まれていました。それはソ連国家防衛委員会*3政令第 8151c 号及びその付録資料で、それにより思ぬ人物が懐中時計モルニヤに深く関わっていた事が分かりました。
その人物こそ、旧ソ連の独裁者スターリン*4 の右腕にして死刑執行人と呼ばれたラヴレンチー・ベリヤ(Л.П. Берия)*5 其の人です。

f:id:raketa:20211125161635j:plain旧ソ連で最も権威が有るとされる『ソビエト大百科事典(第二版)』*6に誇らしげ
に載るベリヤの肖像*7



ベリヤの政令案

旧ソ連の懐中時計モルニヤ(Молния)の開発は、大戦末期の 1945年4月12日に当時のソビエト連邦人民委員会議副議長(副首相)で、秘密警察を率いる内務人民委員部*8トップでもあった ラヴレンチー・ベリヤが、腕時計及び懐中時計の品質改善と増産に関する政令案を戦時下の最高機関である国家防衛委員会に提示した事に始まります。


1945年8月12日のスポーツパレードで行進する国家防衛委員会メンバー*9f:id:raketa:20210805193959j:plain画像:http://soviethistory.msu.edu
右からモロトフ、ベリヤ、マレンコフ、スターリン、一人*10置いてミコヤン。*11 
仲良さそうですが全然良くないです。同じ場面の動画はこちらです。

 

ベリヤは政令案で、兵器製造を管轄する迫撃砲兵器人民委員部*12 の軍需工場*13 で生産される腕時計及び懐中時計が、外国製に比べその品質・外観の両面で大きく後れている状況を指摘し、そして時計製造に必要な部材を製造する各人民委員部(日本で言う「〇〇省」)が、その原因の一端を担っていると名指しで非難しています。*14

鉄鋼冶金人民委員部*15 の懐中時計用ゼンマイは品質が低く、非鉄金属工業人民委員部*16 では部品用の高品質な合金*17 生産が進んでいない。また化学工業人民 委員部*18  は未だに品質の高い軸受け用人工ルビーを製造出来ていないなどと。尚、この非難の内容はベリヤの政令案には載っていませんが、決議書に記載がある事からベリヤが委員会で直接言及したのかもしれません。

国家防衛委員会で名前の上がった各人民委員部のトップらは、さぞや生きた心地がしなかったでしょう。何せ相手はあのベリヤですから。  

自ら立案までしたベリヤは、近代の組織的な戦闘では不可欠な時計が、海外製に比べ格段に劣る事態に脅威を抱いていたのかもしれません。それを物語るかのように承認された時計製造の政令では、発電所人民委員部*19に対し「弾薬製造と同等に、時計製造工場への電力供給を義務付ける。」と高い処遇を指示しています。*20

 


政令 № 8151с 成立

外国製に引けを取らない新しい懐中時計*21 の開発製造を熱望したベリヤの政令案が 1945年4月19日にソ連国家防衛委員会で決議されると、新たな懐中時計用のムーブメント К-36 の開発が動き出します。因みに К-36 という名称は政令案には出てきませんが、政令№ 8151c では «Часы карманные калибр 36 мм (К-36) »(懐中時計キャリバー 36 mm [ K-36 ])と明示されています。*22 ただ、時計に関する国家規格(ГОСТ 918-41)*23 では、本来は ЧК-6(6時の位置に秒針がある懐中時計)となりますが、既に ЧК-6 を名乗る機械が他にも複数有るため、この時点では К-36 としたのだと思います。*24

そしてその К-36 を搭載する懐中時計は、モスクワ第2時計工場で製造される物が "Салют"(サリュート:祝砲、花火*25)、新設のチェリャビンスク時計工場で製造される物を "Молния"(モルニヤ:稲妻)と命名されます。ただ、ベリヤが政令案で既に両方の名前が出ているので、ひょっとすると彼が勝手に付けた物かもしれません。*26

後に "Молния" が輸出される際にはラテン文字の "Molnia" が使われ、お馴染みの "Molnija" が登場するのはずっと先の事になります。*27



f:id:raketa:20210621144339j:plain後に完成する К-36 。パーツの形状は現在の Molnija 3602 と同じですが、К-36 には
美しい縞模様*28の装飾が施されています。



ベリヤの政令により、新しい懐中時計用ムーブメントに求められた要件。*29

(1)サイズが 36 mm (よれにより К-36 と呼ばれる)
(2)15石の人工ルビー
(3)モノメタリックの天輪(момонометаллический баланс)*30
(4)エリンバー合金製ひげゼンマイ(Элинварный волосок)*31
(5)日差±1分
(6)駆動時間は30時間以上
(7)時計の厚みは 9.5 mm 以下


今から76年前ですが、当時の工業水準が決して高いと言えないソ連には、この要件は相当にハードルが高かったと思います。シベリアに何人飛ばされたか…。

Молния(モルニヤ)、Салют(サリュート)の開発・製造を命じたのが決議書「国家防衛委員会 政令第8151c号」で、これはロシア連邦公文書館*32のアーカイブサイトで、«Документы Советской Эпохи»(ソビエト時代の文献)として公開されています。ただ残念な事に、一部を除いて公文書へのアクセスはロシア連邦とベラルーシ共和国*33に限定*34されています散々見た後に気が付いた!)。
本当はここへ貼り付けたかったのですが…しかし、モルニヤ社の公式ページ(ロシア語)には幸いにも、画像は荒いですが掲載されています。ですが関連資料を含め全部で33枚もある内の1、2枚なのが惜しい。
 

 

 К-36 (ЧК-6)

写真左は Molnija 3602 の原型と成るモスクワ第2時計工場で開発製造されたムーブメント К-36(通称 ЧК-6)。そして右はコピー品かと疑いたくなるほど瓜二つのスイス製ムーブメント 。

 右はスイス Cortébert 社(コルテベール)の CAL. 620*35 で、あの Rolex にも供給されていた有名なムーブメント*36です(知らなかった)。そしてこのムーブメントこそが、ソ連の懐中時計として名を馳せた Molnija (稲妻)の原点となります。なので「コピーはお前の方だ!」と怒られます。

では何故に Cortébert のムーブメントが選ばれたのか。それは時計製造の最高責任者*37でもあるラヴレンチー・ベリヤが愛用していた、それに尽きるようです。詳細はこの項目(К-36)の最後にある囲み記事をご覧下さい。


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散文芸術系のポータルサイト Проза.ру に、2010年に解体され今は亡きモスクワ第2時計工場についての手記 "Былая слава(かつての栄光) Георгий Елин" が掲載されています。その中に時計工場を見学する様子も描かれており、展示室に飾られていた懐中時計 «Салют» (サリュート)について、

見学ガイドは「実はオリジナルではなく、原型はベリヤが非常に気に入っていたスイスの Cortébert 社のクロノメーターである」と説明しました。1,000個が製造されベリヤを喜ばせたが、大量生産には至らなかった…


と書かれていました。なぜに量産出来なかったのか…



 

開発の高いハードル

f:id:raketa:20210626010949j:plainチェリャビンスク時計工場で製造された К-36 の全パーツ(1959年製)。*38


1945年スターリンが承認した МолнияСалют 用ムーブメント К-36 の開発が、時計産業科学研究所*39と共にモスクワ第2時計工場*40で動き出します。しかし、ベリヤが持ち込んだスイス製の Cortebert CAL. 620 を元に進められる開発は、薄型で精巧な作りの CAL. 620 に対し工業水準が劣るソ連側の技術や設備が追いつかず、その作業は困難を極めました*41

それを補う様にベリヤの政令は、各人民委員部に時計開発製造に必用な数多くの設備や資材の調達を義務付けています。特に対外貿易人民委員部*42 に対しては、国内製造が困難な高品質な合金や人工ルビー、高精度の工作機械に試験及び制御用の特殊装置など、200品目にも及ぶ外国製品の輸入を命じています。


当初の計画から大きく遅れながらも、1946年に 36 mm x 3.5 mm (口径 x 厚さ)サイズの新しい懐中時計用ムーブメント «К-36» を完成させます。それは手本とした CAL. 620 よりも更に 0.1 mm 薄く仕上げられました。現在の Molnija 3602 と比較して 1 mm 近くも薄いムーブメントとなっています。

ただ完成はしたものの、ソ連の製造技術では特にその薄さは手に余す物があり、結果それは足枷と成って、後の時計量産をより困難にしました。何せスイスですら、量産される懐中時計用ムーブメントの厚みは 4.0 〜 4.5 mm が最適としていたのですから。*43

 

ライセンス生産じゃ無いの?

古いソ連の懐中時計。   左:ЗиМ(ZiM)/  右:Тип-1(Type-1)

ソ連初の懐中時計 «Тип-1»(Type-1)は、アメリカ Hampden *44 買収によって誕生し、続く «ЗиМ»(ZiM)も、フランス LIP *45の協力で完成しています。
ならば Молния もまた Cortébert 社の支援の元で製造かと思いきや、それを示す資料は見つかりません。逆に Cal. 620К-36 では微妙に厚みが異ったり*46、一部の製造機器の入手に梃子摺る*47 など、協力関係に有ったとは思えない事象が存在します。
ただ、ベリヤの政令には「特別な図面に従って輸入する工具」という謎めいた説明が付くリスト*48 が含まれていたり、ベリヤが設計図を持ち込んだとする記事*49も見られるので、ひょっとすると技術資料の提供*50 など、部分的な協力は有ったのかもしれません。まあ、どちらにしても、協力の有無で生じた製造への影響は、時計技師に鞭打って穴埋するので、時計の完成に影響は無かったでしょう。そこが怖いぞソ連。





"Молния"(モルニヤ)の誕生

f:id:raketa:20210908204459j:plainチェリャビンスク時計工場で製造された Молния(1956年製)。

К-36 が完成した同年、1946年に "Салют"(サリュート)、翌年には "Молния"(モルニヤ)というスイス製にも引けを取らない*51 新しい懐中時計がモスクワ第2時計工場から誕生しました。   "Молния" は、新設のチェリャビンスク時計工場*52での製造予定でしたが、工場建設の遅れから急遽モスクワ第2時計工場で製造される事になりました。*53。チェリャビンスク時計工場での製造が始まったのは 1949年です。*54

当初スイスの時計メーカーは、このような品質の高い時計がソ連で製造された事に対し懐疑的で、ムーブメントの部品を占領下のドイツで製造させ、「ソ連は組み立てているだけとまで言われていました。*55 

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"First series Molnija pocket watch"
 Great photograph :  pmwas


写真は 1947年に製造された最も初期の "Молния" です。ボウ(輪っか)がその後の製品とは異なりケースに取り付けられています*56。この "Молния" は前出の通り、モスクワ第2時計工場で製造された最初の "Молния" で、とても珍しく貴重なモデルです。またムーブメントは三番車、四番車、ガンギ車の穴石に全て真鍮製のシャトンが使われていて、こちらも珍しいタイプです。

 


f:id:raketa:20211127141916j:plain雑誌 Техника - молодёжи 1946-04     zhurnalko.net

上は 1946年に発行された旧ソ連の青少年向け科学雑誌 «Техника - молодёжи »(テクニカ・モロデジ)4月号*57の表紙と掲載された、新製品の懐中時計 Салют(サリュート)、Молния(モルニヤ)を紹介する記事です(腕時計も少し)。文中の写真には紳士用の Победа(ポベダ)、婦人用の Звезда(ズヴェズダ)を挟むように Салют(左)と Молния が写っています *58記事の内容をザックリ言うと、

「戦前の物と比べ、小さい!薄い!軽い!それでいて高性能。日差1分以内!」

って感じです(ちょっとザックリ過ぎたかもしれない…)。この記事全体の翻訳は「コマンダスキーのポスター」みたいな感じにして、また載せたいと思っています。さて、いつのことやら…。



とにかく何とかしちゃう、ソ連流

スイスをも(多分)驚嘆させた*59 К-36 搭載の "Молния" ですが、そのスイス時計メーカーによる製品評価では、総合的に高い評価を受けますが、同時に幾つかの問題点が発覚しました。その一つが脱進機で、機構自体はアンクル式で問題は無かったが、主要部品であるガンギ車とアンクルがスイスメーカーのスチール製に対して、К-36 は真鍮製(写真下-右)が用いられていた点でした。

しかし、ソ連側はそれらをスチールで製造する装置を有しておらず、またスイスからの入手も容易ではありませんでした。何故なら、1923年から続く国交断絶状態*60 の上に、スイスが時計製造の技術流出を防ぐ為に厳しい工作機械の輸出禁止措置*61 を取っていたからです。しかし、それでも何とかして手に入れるのがソ連です。


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左:銀色のスチール製アンクル*62  右:黄色い真鍮製アンクル


戦中、時計工場を管轄した迫撃砲人民委員部は戦後、機械工学・機器製造省*63 となり、その副大臣を務めたのが、時計技師である同志ブリツコК.М.Брицко)*64 です。彼はベリヤの命令により、スイスの時計メーカーに "Молния"の詳細な評価 *65 を求めた際、技師たちから品質、性能に関する問題点*66を指摘されます。
それは同省の大臣、同志パルシン П.И. Паршин )*67 により、1948年11月*68 にベリヤに報告され、その中でスチール製脱進機の問題について、『スイスでは製造装置を入手出来ないが、非公式で入手した図面を元に機械を製造し、1949年第2四半期からの導入を予定している。』と示されています。
実際にスチール製のアンクルとガンギ車(写真上 - 左)が К-36 に採用されたのは、当初の予定より少し遅れての 1949年第4四半期でした。

ただ製造装置や工作機械の図面が全て入手出来る訳では無く、ムーブメントの表面に装飾を施す平面研磨機では写真しか手に入らず、それを元に製作すると言う驚きの計画もありました。技術的にソ連国内での製造が難しかったのか、スイスで作らせ(輸出規制を掻い潜る為か)チェコスロバキア経由で持ち出す算段だったようです。

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左:1950年以降のコート・ド・ジュネーブ 右:初期の装飾用ストライプ*69

実際に写真だけで作ったかは不明ですが、К-36 の装飾が変更されたのは 1950年第3四半期(Салют の場合。Молния は 1952年以降)と、アンクルなどの製造装置より更に1年も後となっています。同志ブリツコは 1957年まで副大臣を勤め上げているので、平面研磨機に時間が掛かった件でベリヤに咎められる事は無かったのでしょう。

斯くして苦心惨憺の末に完成させた К-36 を搭載し、新たに誕生した懐中時計ですが、残念ながらモスクワ第2時計工場の «Салют» は、大人の事情(多分)*70  で短命に終わります。しかし一方、チェリャビンスク時計工場の «Молния» は、後に登場する К-36 の量産モデル*71 Molnija 3602 により大量生産に成功すると、多くの国に輸出されます。 そして世界中で «Molnija» として知られる旧ソ連の懐中時計は、2008年に工場が操業を停止するまで 62年に渡り製造されました。 

 

チェリャビンスク時計工場、やってます!

 АЧС-1В

航空機用時計 АЧС-1;В (日差±20秒、動作温度範囲±60℃ 電気ヒーター付)*72

チェリャビンスク工場はソ連崩壊の荒波の中、幾度となく訪れる倒産の危機を乗り越え、現在は得意の航空機用クロノメーターなどを製造する、ロシア国防省のサプライヤーとして存続しています。また、民生品の腕時計や懐中時計の製造も再開されてはいますが、自社製のムーブメント(Molnija 3603)は一部の腕時計のみで、懐中時計は社外製の機械が載っています。残念!


IgorOleynick, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

よく見かけるチェリャビンスク時計工場の写真ですが、工場にしては妙に立派だと思ったら、何と元々は図書館の予定だったそです。*73 それならこの外観は納得です。この裏に大きな工場が隣接していましたが、今はショッピングモールとなり、チェリャビンスク時計工場はこの建物の2フロワだけだそうです。*74

ステイホームでお暇なら散策でもどうぞ。チェリャビンスク時計工場へ Go!



 

 ЧК-6 にはご注意!

懐中時計 Салют、Молния のムーブメントに刻印されていた事から  К-36 の名称以上に広く知られ、そして使われているのが «ЧК-6» *75です。しかしこれは、特定の機械を指すものではなく、「6時の位置に秒針のある懐中時計」という意味で、懐中時計に関する国家規格  «ГОСТ 918-41» に定められています。
そのため、この規格が有効だった期間*76に製造された色々なムーブメント*77 に «ЧК-6» が刻まれ、この印は単に「懐中時計の機械」くらいの意味しかありませんでした。

写真上は、規格 ГОСТ 918-41 に沿って 1947-1949年に製造された旧ソ連の懐中時計で、右から Тип-1(1949年製)、ЗиМ(1947年製)、Салют(1947年製)で、当然これらにも  «ЧК-6» の刻印が漏れなく入っています。*78 写真下は、刻印の部分を拡大したもの。


右から Тип-1、ЗиМ、そして Салют に刻まれた «ЧК-6» 。

という事で、 «ЧК-6» だけでムーブメントを判断すると、色々と話しがややこしくなるので、例えば «Молния ЧК-6» とか «ЗиМ ЧК-6» みたいにすれば分かり易いんでしょうが、あまり見かけません。«ЧК-6» にはご注意あれ!

 

 ベリヤの愛したサリュート 

 

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Лаврентий Павлович Берия (1899-1953)   


К-36 開発の端となった懐中時計 Салют(サリュート)の製造を推し進めたのが、スターリンの右腕にして忠実な死刑執行人 ラヴレンチー・ベリヤ(Л.П. Берия)だとする話をロシアの時計フォーラムなどで良く見掛けました。ソースが不明で俄には信じられませんでしたが、前出の国家防衛委員会の資料により事実と分かり驚きました。そして更にベリヤ Cortébert CAL. 620 との関わりを示すこんな興味深い文章を目にしたのです。

1945年末、モスクワ第2時計工場は、新設された時計産業科学研究所と共同でСалют 用の直径 36 mm、高さ 3.5 mm のムーブメントの開発に着手した。この時計の原型は、ベリヤが愛用していたスイス製の Картебор *79Cortébert )である。しかしこの時計のムーブメントは技術的なハードルが高く量産に適さなかった。そして開発は難航し、1949年まで続いた。*80 *81


これを見つけたのが、旧ソ連でモスクワ第2時計工場だった、新生SLAVAの公式ページです*82。しかも著者は嘗て、ソユーチャスプロム*83やモスクワ第2時計工場で技術及び品質の責任者だった Богданов Владимир Георгиевич 氏です。其の上、モスクワ第2時計工場の職人家庭に生まれたとありますので、敢えて疑う必要もなく、ベリヤと Cortébert CAL. 620 の関わりは間違いないでしょう。

悲しい Салют

f:id:raketa:20210524152632j:plain"Salut ЧК-6 Pocket Watch" Great photograph : mroatman

愛用の Cortéber を元にベリヤが作らせた懐中時計 Салют(サリュート)。
ベリヤがそれを手にした6年後、ソ連の最高権力にまで上り詰めた彼は失脚し、処刑された。そして Салют もまた、その翌年に製造が中止されると、ベリヤの後を追うかの様に、終焉を迎えます。*84

 

 

まだまだ続きます。次では Molnija 3602 と共に、そこへ至るまでに登場した К-36 の改良型ムーブメントについても書いてみました。また、それらを搭載した旧ソ連のレアな懐中時計  «Искра»、«Луч 97К»、«Кристалл» についてもご紹介します。

後編旧ソ連の懐中時計 モルニヤ Molnija 3602 編をどうぞ。

 

 

 

[更新日と内容]
2021/05/16 「旧ソ連の懐中時計 モルニヤ Molnija」を公開。
2022/09/01 以前の物を2分割して、こちらを「Молния К-36 編」として公開。
2022/12/25 チェリャビンスク時計工場の画像リンク切れを修正。
2023/08/01 改行コードを削除。

             

 

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*1:上の写真はソ連崩壊後に生産された物らしく、ロシア製(MADE IN RUSSIA)となっています。

*2:基本的に精度は良いのですが、一部にコストダウンで性能が落ちたモデルもあります。また、衝撃吸収装置を備えた Molnija 3603 を搭載したモデルも若干あります。

*3:Государственный Комитет Обороны «ГОКО»  1941-1945   大戦中、意思決定機関を集約する為に 1941年に設立された臨時の最高機関。

*4:Иосиф Виссарионович Сталин:言わすと知れた旧ソ連の最高指導者。

*5:Лаврентий Павлович Берия:https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%91%D0%B5%D1%80%D0%B8%D1%8F,_%D0%9B%D0%B0%D0%B2%D1%80%D0%B5%D0%BD%D1%82%D0%B8%D0%B9_%D0%9F%D0%B0%D0%B2%D0%BB%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87

*6:«Большая советская энциклопедия» 略称で «БСЭ» と呼ばれ、第二版は 1949年から1958年にかけて全50巻、1960年に目次2巻が発行されます。また補足の年鑑(1957-1969年)を加えると全65巻で軽く 100kg 超えです! ベリヤの肖像が載る第5巻は彼が失脚し処刑される3年前の1950年に発行されています。

*7:しかし彼がこの3年後に失脚し処刑されると、肖像と記事を切り取る旨の手紙と差し替え用のページが購読者に届きます。粛清はあくまでも徹底的な所がソ連らしい。

*8:«НКВД» Народный комиссариат внутренних дел СССР,  1934 - 1946: 「泣く子も黙る КГБ(KGB)」 の前身。しかしその権力は KGB の比では無い恐ろしい政府中央機関。

*9:ソ連国家防衛委員会は戦争終結により同年9月4日に解散しています。

*10:「俺を飛ばすとは何事か!」と言われそうなこの人がフルシチョフ。写真の8年後にソ連の最高指導者となり、キューバ危機では核戦争一歩手前まで行った人。

*11:写真以外に、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、そしてブルガーニンがメンバー。ヴォズネセンスキーも1942年にメンバーに抜擢されたが、1950年に粛清により処刑されているので、1945年時には計8名。

*12:Народный комиссариат миномётного вооружения СССР,  1941 - 1946 : 大戦における迫撃砲の生産拡充とロケット砲開発のために設立された委員部。

*13:「モスクワ、ペンザ、チストポリの3つの工場」とベリヤの政令案に記載されています。モスクワは多分、第1時計工場だと思います。

*14:厳密に言うと政令案では無く、議決された政令の方で名指ししている。

*15:Народный комиссариат чёрной металлургии СССР, 1939 - 1946

*16:Народный комиссариат цветной металлургии СССР, 1939 - 1946

*17:銅と亜鉛の合金、真鍮の事だと思います。

*18:Народный комиссариат химической промышленности СССР, 1939 - 1946

*19: Народный комиссариат электростанций СССР, 1940 - 1946  名前がズバリ過ぎる組織ですが、迫るドイツ軍から発電所の設備を守るためにタービン発電機やボイラー(かなり大きいでしょう)の疎開までやっちゃう凄い組織みたいです。

*20:議決書 8151c の付録 No.1 に記載。

*21:実際には腕時計も含まれていました。

*22:K-36 の "K" は Калибр(キャリバー、口径)から来ています。Карманные(懐中)という説もありますが、政令№ 8151c に載っている腕時計の機械も "K" から始まるので間違いないでしょう。

*23:"ГОСТ" は、"Государственный стандарт(国家規格)" の略称です。最後の二桁の数字は発行された年度で、この場合は 1941年 となります。

*24:後に製造された К-36 には規格通り «ЧК-6» の刻印があります。ただ «ЧК-6» の刻印を持つ機械が他にも複数あるので、К-36 と呼ぶのが無難な気がします。

*25:ソ連は独ソ戦で作戦が勝利した際、モスクワで祝砲や花火を用いて祝ったそうです。そこからモスクワ第2時計工場の懐中時計を"Салют"(祝砲・花火)と命名したとか。公式な文章が無いので説ですが、合ってる気がする。

*26:政令案の内容自体は専門家と会議して決めたみたいですが、名前に関しては「同志諸君、どんなのが良い?」とあのベリヤが聞いたとは思えない…。

*27:経緯は不明ですが、古いモデルの中に一部、 "Molnija" とした物も見受けられます。

*28:これは 1953年製で、1946年〜1951年頃のムーブメントは、鏡面仕上げの表面に切削痕によるストライプが入るタイプでした。

*29:「国家防衛委員会 決議第8151c号」より。

*30:単金属製の天輪。これまでは、ひげゼンマイの温度による弾性の変化を熱膨張率の異なる金属を張り合わせて作られた「切りテンプ(温度で微妙に変形する)」で補正していたが、温度特性の良いひげゼンマイ(エリンバー合金)の登場でモノメタリックの天輪に移行した。

*31:室温付近での温度変化に対して弾性係数の変化が小さい、鉄、ニッケル、クロームを主成分とする合金を用いた温度変化に強いひげゼンマイ。

*32:Федеральное архивное агентство

*33:何でベラルーシ? 両国は「ベラルーシ・ロシア連合国家」なので外したくても外せない。

*34:物理的な制限では無く「ダメよ」的ですが。

*35:写真の Cal. 620 には、型番の末尾に "R" が付いていますが、ひげゼンマイの違い以外は資料が見つからず不明です。

*36:全く同じものでは無いです。

*37:時計の開発製造の立案者で、時計工場を管轄する迫撃砲人民委員部の監督者でもあった。

*38:よく見ると筒車が抜けてました。すいません…

*39:НИИчаспром:Научно-исследовательский институт часовой промышленности «НИИчаспром» 現在も存続しています。

*40:2МЧ3(2-й Московский часовой завод)

*41:https://slava.su/spravochnaja-informatsija/istorija-chasovogo-zavoda-slava/istorija-chasovogo-zavoda-slava-na-mirnie-relsi/

*42:Наркомвнешторг СССР

*43:1948年頃にソ連側の要請で行われたスイス時計メーカーによる製品評価で、その様に述べられています。3.5 mm の «К-36» は、端から量産には向かなかったし、技術力で劣るソ連では尚更のこと。

*44:倒産した Dueber-Hampden Watch Company は、1929年に買収さると、工場設備や在庫部品はソ連に運ばれ、解雇された技術者達は高待遇で招かれた。

*45: Lip S.A. d’Horlogerie(株式会社リップ時計) : 1936年からソ連時計産業への技術協力が始まる。"К-36" も LIP との契約で製造されたとする説もあるが、これはちょっと怪しい…。機械は全く違うので、何か有ったとしても技術的なものだと思う。

*46:К-36 は Cal. 620 に対して 0.1 mm 薄く、Cortébert 社の製造設備と異なる可能性があります。

*47:スイスでは時計製造設備の輸出が厳しく制限されていたので、その影響が有ったかもしれません。

*48:Cortébert 社の製造設備は含まれていません。アメリカ、イギリス、ドイツの切削、研磨系の工作機械が数多く記載されています。

*49: https://www.sovsekretno.ru/articles/istoriya/nashe-vremya-isteklo 

*50:内部の裏切り者(金銭目的のスパイ)からの流出も横行してた

*51:引けを取らないのは К-36 で、量産品のMolnija 3602 は、仕上げの面でかなり引け目を感じます。 

*52:ЧЧЗ:Челябинский часовой завод

*53:モスクワ第2時計工場で製造される "Салют" とは外装が異なる為に、さぞ大変だったと思います。「何で俺たちが…」っていう時計職人たちの愚痴が聞こえてきそうです。チェリャビンスク時計工場はモスクワ第1時計工場の流れを汲んでいるので、誰かが「モスクワ第1が作れよ!」って言ってたかも…。

*54:それでも、1955年までモスクワ第2時計工場は "Молния" の製造を続けました。

*55:時計製造に尽力したソ連邦機械工学・機器製造省(Министерство машиностроения и приборостроения СССР)の副大臣、Константине Михайловиче Брицко のレポートより。

*56:ボウは普通C型ですが、これはΩ型で、左右の丸い部分に嵌っています。

*57:http://zhurnalko.net/=nauka-i-tehnika/tehnika-molodezhi/1946-04

*58:右端の Молния には何故か針が付いてない。製造が翌年からなので実物が無くて、手元に有ったサンプルのケースと文字板で撮影用のダミーを作ったのだろうか? でも、そんな手抜きがベリヤにバレたら…。

*59:「スイスを超えた!」では無く「あのソ連が作った」で驚いた様で、スイス側は完全に見下して居ました。褒め言葉も「イギリス(スイスより格下)を超えた」ですから。

*60: スイスを訪れていたソ連外交官 Воровский, Вацлав Вацлавович(ヴォロフスキー、ヴァツラフ・ヴァツラヴォヴィッチ)がスイス国籍の元白軍将校に暗殺され、その犯人をスイスが無罪にため。国交回復は 1946年

*61:「スイス時計産業の展開1920-1970年  -- 産業集積と技術移転防止カルテル -- / 著:ドンゼ ピエール=イブ」  J-STAGE

*62:まさか真鍮にメッキ? と思いましたがちゃんと磁石に引っ付きました。

*63:«Министерство машиностроения и приборостроения СССР»

*64:Константин Михайлович Брицко(1909 - 1992)モスクワ第2時計工場の主任技師、工場長も務めた時計一筋の偉い技術者。

*65:"Молния" 以外にも腕時計の "Победа"(ポベダ)も評価された。因みに評価は「並」だそうです。

*66:脱進機以外にも、ヒゲゼンマイやテンプの材質、ブリッジの装飾、精度に駆動時間など…高い評価は「ソ連にしては頑張ったね」だったのか?ただ、機械の厚みに関しては「薄い」と言われたようです。まあ、それがその後のネックになるのですが…

*67:Петр Иванович Паршин(1899 - 1970)時計とは関係無く、鉄道畑出身。

*68:公文書には不鮮明ながら、「 30„ Х1 1948 г. 」と有るので、1948年11月30日のはず。

*69:鏡面仕上げのストライプと切削痕のストライプが交互に入っています。

*70:ベリヤの失脚の翌年に製造中止(約8年間製造)。これがベリヤ失脚に関連したとする証拠は有りませんが、彼に関する多くの物(百科事典、各地の肖像、功績など)が削除された事を考えると «Салют» も例外では無い気がします。

*71:機械の厚みを増して製造性を向上させたもの。

*72:売ってます。凄く高いとは思いますが…。https://molnija-ltd.ru/catalog/TechnWatch/achs-1-v/

*73:参照:https://chelchel-ru.livejournal.com/1085617.html

*74:参照:https://vecherka.su/articles/society/20368/

*75:Часы Карманные с секундной стрелкой на «6» часов"

*76:«ЧК-6» の記述の無い次の規格 ГОСТ 918-53 は1953年に発効され、翌年から有効となりましたが、«ЧК-6» が完全に無くなるまでには少し時間を要したみたいです。

*77:みんな6時の位置に秒針があったので。

*78:Тип-1 と ЗиМ は、規格が策定される前から製造されたいたので、刻印の無いモデルも存在します。

*79:原文では、«Картебор» とされていますが、 «Кортеберт» の方が一般的な様です。

*80:https://slava.su

*81:開発が1949年まで続いたとする記述は、Молния 用 К-36 の開発がモスクワ第2時計工場からチェリャビンスク時計工場へ移行される時期の事だと思います。ただ、1955年の Искра 用 К-36 はモスクワ第2時計工場で開発されています。

*82:https://slava.su/

*83:全時計産業連合 :  Союзчаспром

*84:Салют(サリュート)の製造中止がベリヤ粛清に関連するのか、それとも偶然なのかは不明です。ただベリヤの処刑後、彼に関わる物が悉く葬り去られたのも事実(ソビエト大百科事典のページ差し替えなど)で、それらを考えるとまんざら無関係とは言えない気がする…。